大泉北野神社 例大祭(東京都練馬区)
共栄会
東京23区の北西部に位置し、昭和22年(1947年)に板橋区から分区されて23区に加わった練馬区。これに合わせて板橋区から練馬区へ引き継がれた東大泉町を源流とする、東大泉地区の総鎮守として愛されているのが大泉北野神社(大泉天神 北野神社)です。
毎年10月の第1日曜日には感謝・祈りを込めた例大祭が行われ、令和7年は10月5日に開催。前日夜の宵宮(よいみや)祭と合わせ、地域住民でにぎわう2日間となりました。今回はそんな祭りの主役となった町会のひとつを、子どもみこしと宵宮祭が行われた10月4日に訪問。集っていたのは、地域と仲間を愛する熱き心の持ち主たちです。
三十番神社から大泉北野神社へ
大泉北野神社の創建年代は不明ですが、江戸時代初期にはすでに存在していたと伝えられています。もともとは「三十番神社」(さんじゅうばんじんじゃ)という名称で、神仏習合(※1)のもと1カ月=30日間を三十柱の神様が毎日交代で人々や国を守護するという三十番信仰が仏教の法華宗と結びつき、人々に受け入れられてきた歴史がありました。
その後、明治時代に神仏習合が禁止されて三十番神様を祀れなくなり、そのなかの一柱である菅原道真公をご祭神として祀るように。道真公をご祭神とした天神信仰の発祥・北野天満宮になぞらえ、大泉北野神社と名前を改めたとされています。


ここでは、60歳なんてまだ若造だよ
今回お伺いした共栄会は、大泉北野神社の氏子地域8町会のうち東大泉三丁目を拠点として、地域のつながりを大切にしながらお祭りを執り行ってきた町会です。この地域はかつて一面が畑でしたが、昭和16年(1941年)に陸軍士官学校が埼玉県の朝霞へ移転した際、士官学校に勤める武官や文官の居住地として住宅が建設され、その名残から今も「将校住宅」の名称で呼ばれています。また、東京都の水道が敷設される30年以上も前から井戸水を水道方式で供給してきたという歴史からも、独自の誇りと先進性を感じられます。
そんな共栄会の皆さんは、宵宮祭を前にして小さなお子さんから中高生、成人、ご高齢の方まで一堂に会して親睦を深めていました。食事や会話を楽しんだり、ほろ酔いの大人もいたりするなどリラックスムードでしたが、スマホ片手に下を向く人が誰一人としておらず、すぐに飽きてしまいそうな思春期の若い氏子さんも目上の人と臆せずに話したり、小さなお子さんの遊び相手になってあげたりしているのです。
実際に、小学生の頃から祭りに参加していたという18歳の氏子さんは「(他に楽しいことがあっても)神輿は神輿なので」と話してくれましたが、若い世代が祭りに前向きになるには大人たちが手本になるべきと語ってくれたのは、御年72歳の小林修男さん。
「これからは先輩がかっこよくなきゃだめだよ。身なりだけじゃなくて、内面からにじみ出てくるような〝男前感〟がないと。乗っている車がフェラーリってぇんじゃなくて、色気みたいなものがないと若い人はついてこないよね」。
地位や能力で評価される今の時代にはそぐわないかもしれませんが、こうしたもうひとつの価値観を大切にしたいと、若衆の山﨑正通さんも次のように話してくれました。
「会社を定年して、60歳になってもここでは若衆って言われる。『お前らまだ若手だろう』ってね。そもそも年齢の考え方が違うし、会社でどんなに偉くたってこっちではペーペー。いい年した大人だって平気で呼び捨てされるよ。結局、部長だろうが何だろうが人間力がすべて。会社以外にもこういうコミュニティを持てって、よく職場で話しているんだけどね」。
そんな山崎さんも周りから「山ちゃん」と呼ばれていて、「社員に『また髪の色を変えたんですか?』って言われるんだよな」(笑)と、気さくにいじられていました。
背負う肩書も、周りの目も気にならない――現代に必要な地域コミュニティは、しがらみを捨てて本当の自分に〝帰れる場所〟であることなのかもしれませんね。
こうしてお話しを伺ううちに親睦の時間が終了すると、共栄会の皆さんは人が変わったかのように真剣モードへ。深緑や黒の半纏に身を包んだ一行は、まるで戦いに挑むかのように大泉北野神社へ向かうのです。
神輿にのせた、8町会の熱きせめぎ合い
宵宮祭は夜の始まりを表す「宵」と神社を意味する「宮」、つまり夜の神社の祭りのことで、大泉北野神社では書道展・華道展の作品発表やお囃子の披露、露店の出店などが行われましたが、最大の見どころは何といっても8町会による宮神輿神幸(※2)でした。
厳粛な式典が行われるなか、神輿が置かれた拝殿前は8町会の氏子たちであふれ返ると、高張り提灯の先導からトラクターにけん引された巨大な曳太鼓に続いて、煌びやかな宮神輿が出発。8町会の氏子たちが担く神輿は神社を出て大泉学園駅前を通り、再び神社へ戻るルートを通りましたが、この神輿神幸で繰り広げられた8町会のせめぎ合いを見ようと、至るところで人だかりができていました。
「おい! ちんたら担いでんじゃねーぞ!」
「オラァ! 駅前だぞ! 元気ねーよ声出せ!」
江戸っ子のような掛け声が飛び交います。共栄会の皆さんはもちろん、他町会の担ぎ手たちも競い合うかのように威勢よくお神輿を担ぎ上げます。こうして伝統行事に真剣に向き合う大人たちの姿こそ、次世代の若手が心をふるわせる力になるのかもしれませんね。
およそ1時間後、宮神輿は再び大泉北野神社へ戻ってくると、掛け声に合わせて拝殿前に鎮座。雨が止んだ夜空の下、8町会の氏子全員による一本締めで宵宮祭は終了となりました。


住宅街の町会で、世代をつないでいく
戦後、東大泉地区は多くの住人が都心に勤めるベッドタウンとなり、共栄会は〝住宅街の町会〟という性格が強まっていきます。そのため土着の家庭が少なくなり、自治組織としての活動に支障が出る厳しい現実に直面するのです。
「もともと、共栄会は勤め人と将校上がりの官僚たちによる町会でした。その子どもも勤め人が多く、もっと通勤に便利な地域へ引っ越したり、地方へ転勤になったりして出て行っちゃうので、神社の事業を継承することが難しいんですね。私たちは、必ずしも代々で祭りを執り行っている集団ではないのです」(氏子総代・實川芳昭さん)。
共栄会の会員は今もこの地域に住んでいる人が少なく、10年ほど前まで高齢化や後継者不足が深刻だったそうですが、この流れを変えたのが子ども世代を介して再びつながった〝第三世代〟の子どもネットワークでした。子どものイベントに出向いた親同士が仲良くなり、実は大学の同級生だったことがわかって仲間になる、といった例も多く、若返りが進んでいるのです。
4日の日中には町会の小さな子どもたちが参加する「子どもみこし」も行われましたが、大人が何人いても大変というこの行事をサポートして、最後までお世話をしていたのが10代後半の若き氏子さん。数年後、今度はみこしを担いでいた小さな子どもたちがそんなかっこいいお兄ちゃん、お姉ちゃんになる可能性があるわけで、最近になって若手が増えてきた理由はこんなところにもありそうです。
今回、初めて役職就任のオファーを引き受けたという渡邉仁さんは、共栄会への想いをこう語っています。
「うちはばあちゃんが共栄会にいて、おやじが総代だったから次は俺かって思っていたけど、神輿が好きだから担いでいるだけだったんだよね。今回役職についたのは、ずっと断っていたんだけど、結局次世代につなげるには、俺がクッションになるしかないと決心したから。
今は血筋のある人間がやることで壁が低くなると思うから2、3年はやってやろうかなと。この町会は人が引っ越してきたり、出て行っちゃったりして難しいんだけど、次世代を楽にするために既成概念をぶっ壊してやろうとしか考えてないよ」。
氏子たちを取り巻く、それぞれの〝かっこよさ〟――匂い立つような色気を持つ人々が集う共栄会は、時代が変わっても大切にしたいものを教えてくれた町会でした。そんな場所は皆さんの周りにも必ずあると思うので、ぜひ探してみてください。


- ※1 神仏習合: 日本の伝統信仰である神道と、外来宗教である仏教が、長い歴史の中で互いに影響し合い、一体化・融合した信仰形態のこと
- ※2 神幸:神社の祭礼において、神霊を神輿(みこし)や山車(だし)などに移し、氏子地域を巡行すること
大泉北野神社
| 住所 | 〒178-0063 東京都練馬区東大泉4-25-4(大泉小学校となり) |
|---|---|
| アクセス | 西武池袋線「大泉学園駅」より徒歩3分 |
| 大泉北野神社例大祭 | 10月第1日曜(宵宮祭は前日) |
| ご祭神 | 菅原道真公(すがわらのみちざねこう) |


